アルゼンチンの息吹
6.NGOボランティアに参加──自律性とは何か?
藤井枝里

ボランティア体験を通して感じた違和感

主体性とは何か? 自律性とは何か? この問題について、改めて考えさせられることになったのは、ビジャと呼ばれる貧困地域で、住居を建築するNGOにボランティアとして参加したことでした。
 この団体は、ラテンアメリカ域内9ヶ国に拠点をもち、総勢6万2000人のボランティアを動員する、大規模なNGOです。コルドバでは今回、約300人のボランティアが参加し、3泊4日をかけて、郊外の4つのビジャで28戸の家を建築しました。
 
私たちのチームが行ったのは、カンポ・デ・ラ・リベーラという地域で、担当したのは22歳の夫婦、生まれて5ヶ月の息子という3人家族の家造りでした。家造りというプロセスの中で生まれた友情、好奇心いっぱいで集まってきた子どもたちの笑顔、そして完成の瞬間の感動は言葉に表し難く、忘れられるものではありません。
 しかし、ここではその詳細を紹介するよりも、ボランティア体験を通して私が感じた違和感をたどり、今日の社会運動におけるキーワードとも言える、主体性と自律性について考えてみたいと思います。

「手を差し伸べるべき対象、助けるべき貧しい人々」

まず、私がボランティアの中にいて感じたのは、「まるで日本にいるようだ」という奇妙な感覚でした。参加者の問題意識や考え方が、日本の私たちのそれと、非常によく似ているのです。彼らは皆、貧困の存在に疑問をもち、「何かしたい」という衝動に動かされて集まってきた若者たちです。
 その大半は大学生ですが、社会格差が日本の比でないラテンアメリカにおいて、大学まで進める若者は一握りでしかありません。そのため、彼らの貧困問題に対する意識は、「手を差し伸べるべき対象、助けるべき貧しい人々」という、いわゆる先進国の人々が発展途上国に対して抱く感覚に近いような気がしました。
 
数年前、私自身も、途上国で学校建設を行うNGOに所属していました。「世界の貧しい子どもたちのために」と献身的に働いていた私たち。日本の人々に求めるのは、「国際協力へのご理解と暖かなご支援」。無意識のうちに、あるいは否定しつつも、すでに前提として思考を規定しているこの上下関係が、再び、今度は国内のレベルで再生産されているように思えたのです。
 「ここで出会う数多くの若者たちは、国の将来を担うリーダーであると私たちは考えている。彼らは明日の経営者、支配人、知事、総裁あるいは大統領である。」
と、そのNGOのパンフレットにあるように、それは、今後さらに上流階級に上っていくことが可能である若者たちの感覚なのです。
 
とはいえ、ビジャの住民にも、「自分で汗を流すより、政府の補助金を待ったほうがいい」と考える風潮が強く、彼ら自身も受動化・客体化されてしまっているように感じました。

ボランティアの孕む危険性──避けられない境界線

これまで、この連載で見てきた様々な社会運動を思い出してみると、彼らにとって貧困問題への取り組み、あるいは人権要求というのは、まさに自分自身の問題でした。それは、相互扶助に基づき自分たちを組織化していく、日常的なプロセスです。確かに、開発系NGOや国際援助機関も歴史を重ねるにつれ、あからさまな上下関係に基づく援助ではなく、「地域住民の参加・主体性を重視する」方向に進んではいます。
 しかし、社会運動においては、もとより主体が地域住民であるため、そういった発想自体が出てきません。開発に関わるボランティアの孕む危険性は、ここにあると言えるかもしれません。つまり、無意識のうちに、出向く主体と待つ客体という関係性を固定し、近づくがために境界線を明確にしてしまう、という皮肉を生む可能性があるということです。

貧困を生み出す構造に依存

また、このNGOの活動資金は、企業や個人からの寄付、高校生による課外活動、ゴルフトーナメントやコンサートといった各種支援イベント、そして世銀と米州開発銀行の融資から賄われています。後で聞いたところ、世銀は、県政府によるビジャ住民の移住プロジェクトにも融資しているそうです。これは、都市の拡大に伴って需要の高まった土地を確保するため、県政府がビジャの住民に立ち退きを迫り、郊外へ移住させるというものです。
 そうして、県政府が得た土地は、富裕層のためのゲーテッドコミュニティ、ショッピングセンター、映画館などを建設するために売られていきます。ビジャ住民のために新たに用意された住居は、法的にも住環境的にも問題が多く、さらに、様々なビジャからの寄せ集め地区であるため、住民間の争いが絶えないといいます。

いま出口を見つけるために

NGOが、より深刻な貧困を生み出すことに加担している機関や資本家に、その活動を支えられているという矛盾は明らかで、組織内でも、自律性をテーマに議論が続いているそうです。それは、一方では貧困の削減を掲げ住居を建設し、一方ではその貧困を生み出すメカニズムに頼るという出口のない循環装置のように見えます。
 もちろん、このNGOの活動が、まったく無意味であるとは思いません。私たちが建てた木の家は、新たな希望や人々の絆が生まれる空間へと転換していくでしょう。しかし、いま出口を見つけるために必要なのは、そこから住民自身が主体となって問題を話し合い、自分たちの行動を起こすことではないでしょうか。
 
そして同時に、私たちも、どこか遠くの貧困ではなく、自分たちの中に存在する貧困に目を向けることができるはずです。
 
*初出は、『人民新聞』2007.10.5(第1291号)。ただし、ウェブでの再録にあたって、『人民新聞』発表時より、一部を改訂・変更しています。

藤井枝里(ふじい・えり)

上智大学外国語学部イスパニア語学科卒業。2008年8月より、FLACSO-Argentina(ラテンアメリカ社会科学大学院・アルゼンチン)社会・政治人類学修士課程。






ビジャの風景。ほとんどの家庭が、子だくさんだ。


あり合わせの材料でつくられた、トタン屋根の家々。


ボランティアのメンバーと住民みんなで、家を建てる。


土台づくりの様子。


興味津々で家づくりに参加する子どもたち。