ロンドン便り(1)── イーストエンドを歩く
丸山里美

田園都市という構想

都市郊外の庭つき戸建てに住むという夢、その発祥はイギリスである。この原型が生まれた20世紀初頭のロンドンは、農村からの激しい人口流入によって都市が無秩序に拡大し、過密化が進んでいた。産業革命による繁栄の陰で都市問題が噴出しはじめ、イーストエンドのような地域では、貧困や不衛生、犯罪が渦巻いていた。
 こうした劣悪を極める都市の惨状のなかで構想されたのが、田園都市である。大都市をグリーンベルトで囲んでスプロール化を防ぎ、その外部に中規模の街を建設する。ここに活気溢れる都市の魅力と豊かな自然を持つ田園部の魅力を並存させるという構想は、都市に住む多くの人を魅了した。こうした人々の憧れが集結して、1903年ロンドン郊外にレッチワースが建設される。これによって現実のものとなった田園都市は、理想の住環境として、それ以降日本を含め、世界中の郊外の都市計画に大きな影響を与えてきた。
 人口3~5万人規模で、職住隣接している。ゆったりした空間配置に、緑が多く植えられた歩道。娯楽や買物施設の整った中心地までは、街のどこからでも歩いていけるよう設計されている。刺激に満ちた大都市までも遠くなく、簡単にアクセスできる。街のなかには豊かな自然も残されている。治安も良く、地価も安い。
 
私がイギリスに来て最初に住みはじめた街も、こうした田園都市とよく似た特徴を持っていた。この街は住みやすい、と周囲の友人たちは口をそろえて言う。実際、美しい街並みと豊かな自然、生活に必要なものにはすべて徒歩でアクセスできる暮らしに不自由はなく、この街で1年間を過ごすのも悪くないと考えていた。
 今思えばそのときまで私は、自然豊かな郊外に住みたいという夢を、自分がこれほどまでに共有していない、ということに気づいていなかったのだ。移民のコミュニティも、雑然としたマーケットも、極端な貧困もなく、都市計画の範疇を超えて溢れだすような生活者のエネルギーを感じられない街。それにもの足りなさを覚えるまでに、時間はかからなかった。そしてその暮らしは、世界人口の半分以上が都市、それも大半は都市外縁のスプロール化していく貧困地帯に住み、それゆえ21世紀は都市の世紀になる★1という、ここ数年強く実感するようになった世界についての私の印象からもかけ離れていた。
 物価が高くてもいい、治安が悪くてもいい、都市に住みたい──。そうしてロンドンに引っ越すことに決めたのは、1年間のイギリス滞在の予定も、半ばになろうという頃だった。

混沌の渦巻くイーストエンド

ロンドンに移ってきてからなにかと訪れる機会が多いのが、イギリスに田園都市を産みだす原動力ともなったイーストエンドである。高層ビルが並ぶ金融街シティに隣接した、ホワイトチャペルを中心とするこの地域は、19世紀末には入り組んだ暗い路地に劣悪な住居がひしめき、排煙にまみれ、伝染病が蔓延する不衛生で過密な貧民街だった。
 こうした当時の様子は、たびたびチャールズ・ディケンズの小説の舞台にもなっている。貧困のために身を売る女性も多く、売春婦が次々と残虐な殺され方をした切り裂きジャックの事件が起こったのもこの場所である。
 
ここはまた移民の街でもあった。17世紀末にはフランスでの弾圧を逃れたユグノー教徒が流入し、続いてアイルランド人、19世紀に入ってきたのはユダヤ人だった。1960年代以降はバングラディッシュ人が移り住んでいる。イーストエンドを南北に走るブリックレーンという通りでは、こうした移民の到来の歴史が何層にも折り重なって、都市の風景を産み出している。
 ユグノー教徒が伝えたシルク編みの技術によって繊維業が盛えたこの地には今でも布地を扱う店が多く、カレーを出すレストランやインド風のスナックを売る店が軒を連ねる。最下層の労働者が住む街にはつきものの、革製品を扱う店も点在する。ユダヤ人が営むベーグル屋は、名物のソルトビーフサンドで24時間ここを訪れる人々の胃袋を満たす。
 
テムズ川岸で働く港湾労働者の集住地域でもあったこの地には、機械化の進行によって産業が衰退したのち、空き工場や倉庫が廃墟のようになって残されていた。その広いスペースと賃料の安さに目をつけて若いアーティストたちが移り住んできたのが、10年ほど前のことである。
 今では下町訛りのコックニーをしゃべる地元の人に混じって、ギャラリーやクラブ、お洒落なショップの集まるホクストンやショーディッチを訪れる若者で賑わい、イーストエンドはクリエイティブなエネルギーの集うエリアとして注目を集めている。この付近には、バンクシー★2の作品をはじめグラフィティがあちこちにあり、路上パフォーマンスに出くわすことも多い。
 
とりわけ日曜日のイーストエンドは、4つの路上マーケットが開かれ、人でごった返す。世界各地の料理を売る屋台が連なり、アーティストが自分の作品を売るなか、道端にはがらくたの山が並ぶブリックレーンのマーケット。少し北に行けば、道一杯に花や植木が並ぶフラワーマーケットに行き当たる。近くにはベトナム人コミュニティがあり、おいしいベトナム料理が食べられる。
 最近リノベーションが完成したスピタルフィールズマーケットには、手作りの服やアクセサリー、オーガニックの食材、雑貨が並ぶ。服屋や下着屋が並ぶペチコートレーンマーケットは、日曜日にはまがまがしい日用品を売る屋台が延々と続き、どこからともなく集まってきたアフリカ系・カリブ系の人で埋めつくされ、違う国にいるかと錯覚するほどになる。

社会運動を支える自律空間

私がこの場所を頻繁に訪れるのは、移民文化と若い才能が交錯する混沌としたエネルギーに惹かれているというだけではない。ロンドンで関わりはじめたホームレス運動の会議や、興味を惹かれるイベントの多くが、このイーストエンドで開かれるのである。
 
たとえば、アナキスト系出版社 Freedom Press ★3は、現代美術の展示で有名なホワイトチャペルアートギャラリーの隣の、見過ごしてしまいそうな路地にある。この出版社からはイギリス国内外の運動情報を集めた新聞が隔週で発行されており、ビルの一角は運動関連の書籍やミニコミを集めた本屋になっている。スクワッターの相談に応じている Advisory Service for Squatters や、直接行動(direct action)を原則にホームレス運動を展開している London Coalition Against Poverty の事務所も同じ建物にある。
 
そこから東に5分も歩けば、ラディカルな運動団体が共同で購入し運営している London Action Resource Centre がある★4。1階はイベントのための空間とキッチン、2階は図書館、3階は事務スペース。地下はミシンもある作業スペースで、バナー作成などに使われている。屋上はオーガニックの菜園、トイレは障害者や子どもを連れた女性にも配慮されたもの。長年かけて改修にかかわった多くの人にとっての理想的な空間が、ここでは実現されているのだ。
 さらに東へ数分歩くと、RampART というソーシャルセンターがある。放置されていた空きビルをスクワットしたここは、強制退去の危機がありつつも、3年以上にわたって共同で運営されている。毎日のように会議やトークイベント、映画上映、ライブ、カフェ、読書会などが開かれるここは、さまざまな人が集う場になっている。宿泊もでき、海外から来た活動家が滞在していることもある。廃棄される直前の食材を使ってビーガン料理をつくり、ホームレスの人などに配っている Food not Bombs が共同炊事を行うのもこの場所である。
 
イギリスでは2000年代に入ってから、直接的にはイタリアの運動の影響を受けて、ソーシャルセンターが数多く出現している。そこではさまざまな人が出会い、情報やスキルをシェアし、議論や行動をともにしながら、自律的な空間を生み出そうと模索が行われている。
 ソーシャルセンターは多くの場合、使われていない建物をスクワットし、基本的なインフラを整備し修繕を加え、話し合いを重ねながら活用されていく。このプロセス自体が、国家や巨大な資本に頼らなくても、自分たちの手でオルタナティブな生活を実現していけることを確かめあう、共同の実験と考えられているのである。
 ソーシャルセンターやインフォショップ、運動関係の書籍やミニコミを扱う本屋といった自律空間(autonomous space)は、ラディカルな社会運動を支える基盤として、イギリスの地に深く根づいている★5。
 
だがスクワットされたソーシャルセンターの多くは、直ちに強制退去の手続きがとられてしまう。またその運営には膨大な労力が必要になるため、長く維持できるだけの資源が不足しがちで、短期間のうちに消えていくことも少なくないのが現実である。実際ロンドンでは、今年に入ってからだけでも3ヶ所のソーシャルセンターが開かれ、興味深いことにそのすべてがイーストエンド周辺に集中していたのだが、いずれも3ヶ月ほどしか続かなかった。
 そのうちの1つは、Wominspace という女性の手による女性のためのソーシャルセンターだったが、これも今はもうない。だがここを運営する過程でつながりを強めた女性たちは、強制退去させられた後も、しなやかで魅力的なネットワークを維持しており、定期的な集まりやイベントを続けている。

都市空間をめぐる政治

現在のイーストエンドは、多くの人が集まる活気ある地域の例に漏れず、開発の手が伸びている。特にスピタルフィールズマーケット周辺ではジェントリフィケーションが急速に進行し、ガラスと鉄筋でできた巨大なオフィスビルが続々と建てられている。それに続くアーケードもお洒落なショップやオープンテラスのカフェ、レストランが入る巨大な空間に生まれ変わった。それにともなって地価も高騰し、ヤッピーと呼ばれる若いエリートサラリーマンたちが移り住んできている。
 
2012年にオリンピックが開かれることになったロンドンが、大方の予想に反して開催地に選ばれたのは、貧困や失業など多くの都市問題を抱えるロンドン東部を、これを契機に再開発しようとする案が評価されたことが大きかったという。メイン会場となるのは、イーストエンドよりさらに東のストラトフォードで、スタジアムの建設とともに周辺の開発が急ピッチで進められている。
 だが、実際は貧困地域の再生という当初の計画とは逆に、もともとの貧しい住民にもはや住めない高級地区に変貌を遂げつつある。開発の中心が郊外のニュータウンからふたたびインナーシティに移っているなか、イーストエンドの風景も、これから数年のあいだに急速に変わっていくだろう。
 
21世紀は都市の世紀になる、この印象を新たにしたロンドンという都市。これから数回にわたって、このロンドンの都市空間をめぐる政治を、私が関わるホームレスとスクワッター運動を中心に、街の様子とともに報告していきたい。

丸山里美(まるやま・さとみ)

日本学術振興会特別研究員。社会学・ジェンダー論。論文に「自由でもなく強制でもなく」『現代思想』34-9(2006)など。






レッチワースに続いて建設された、第二の田園都市ウェリンの街並み。

★1 マイク・デイヴィス『スラムの惑星』(Davis, Mike, 2006, Planet of Slums, Verso)では、21世紀の都市の惨状が、危機感をもって論じられている。邦訳は酒井隆史・篠原雅武・丸山里美の共訳で、明石書店より近刊予定。


英語と並んでベンガル語の標識があるブリックレーン。上方にはグラフィティも見える。

★2 ロンドンを中心に活躍するグラフィティアーティストで、プロフィールに関しては謎が多い。美術館にゲリラ的に自分の作品を展示したり、パレスチナの分離壁にグラフィティを描いたことで有名である。〈バンクシーの公式サイト〉


バングラディッシュ系のレストランが並ぶブリックレーンを、地元の労働者に混じって、マーケットを訪れる若者が行き交う。

★3 Freedom Press紙は1886年以降、断続的にではあるが発刊され続けている、イギリス最古のアナキスト新聞である。ネオファシストの襲撃にあってから頑丈な窓や扉が導入されたこともあり、入口は少しわかりづらい。


Freedom Pressの外壁には世界中のアナキストたちのポートレイトがあり、幸徳秋水の顔も見られる。

★4 自律空間をめぐっては、運動のラディカルさを保つスクワットされた空間がいいのか、より正統性がある賃貸や購入された空間がいいのかについて、長らく議論がある。しかし自律空間が密集しているイーストエンドでは、スクワットされた空間はおもにイベントに、所有権の安定しているLARCはおもに事務所スペースに、という使いわけがされているという。

★5 最近完成した、イギリスの自律空間をめぐる実践をまとめた冊子『What’s this place?』では、代表的な空間の成り立ちや様子、基本的な議論を知ることができる。この冊子はここからダウンロード可能。


近く強制退去させられることが決まっているBowl Court Social Centre


もとは庶民的な市場だったスピタルフィールズマーケットは、新たに作られたガラス張りの屋根の下、付近に住む若いエリートサラリーマン層をターゲットに、高級オーガニック食品などが売られる空間に変化している。