淅江村 ── 滅亡した世界との遭遇
篠原雅武

2007年9月に北京を歩いた。3月にも行ったが、わずか半年のあいだに開発がさらに進行していた【写真1】。北京の再開発については、近ごろ刊行された『北京 ── 皇都の歴史と空間』★1を参照されたいが、さしあたり感じるのは、「有無をいわさない」ということだ。ビル建設や道路の拡張にあたって、障害となる建物が壊されていく。誰が住んでいてどういう生活が営まれてきたかは、計画の遂行においては配慮されないらしい。
 
ときに抵抗らしき場面に直面することはある。3月に、崇文区の、もとは下町風だったと思しき区域(9月に行ったときは立ち入り禁止になっていた)を歩いたときのことだ。住人がほとんどいなくて、おそらくは「退去命令」を指示する文書が、荒廃した建物に多数貼られていた。
 そんなさなか、退去せず住み続けていると思しき女性が役人風の2人の男 ── 自転車にまたがり、タバコをふかしてにやにや笑っている ── と言い争っている。すると、やはり野次馬がどこからともなく集まってきた。同じく居座る住人なのかもしれないし、近くを歩いていた暇人かもしれない。
 
こういう争いは、力なき者の敗北に終わる。北京では ── とりわけ中心部では ── 開発前に建設された平屋や集合住宅が廃墟・廃屋と化して取り壊されていくプロセスと、高層ビルが日に日に増殖するプロセスとが展開していく。機械のように、情け容赦なく作動している。

こういった再開発とは別に、北京には、スラム化のプロセスが存在している。ここでいうスラムは、マイク・デイヴィスが『スラムの惑星』★2で問題化したスラムのことだ。デイヴィスは、現在の世界の二極化、つまりは富裕者と貧民への分裂が意味するところを明示するのが、いま現れつつある新たなスラムであるという。
 それは都市のなかの貧困地区(インナーシティ) ── LAのゲットー、大阪の釜ヶ崎といったところか ── とは違い、都市の周辺部(urban-periphery)に位置する。いまや世界各地で、都市の中心が開発されて美しくなっている。消費のための空間が増殖するというだけでない。街路や広場が露天商やらのらくら者には居心地の悪い、平坦なものになっていくのだが、裏を返せば「美しくない」要素が都市から消去されていくことである★3
 
いずれ都市のなかでは、スラム的なものは存在しえなくなるのか。だからといって貧困は消えない。街中で不可視になっても、貧困そのものは現実においては消去されない。では、それはどこに居場所を定めるのか。
 デイヴィスは、現在のスラムは都市周辺、厳密にいえば「都市と地方の境界地帯」に発生するという。それは「地方がその場で都市化する」ところに形成される混合地帯、つまりは不分明地帯である。「中国、東南アジアの大半、インド、エジプト、そしておそらく西アフリカでの農村と都市の衝突の結果は両性具有的な風景である。いわば部分的に都市化された地 方カントリーサイドだ」(Davis, 2006:9)。こういった不分明地帯は、地方からの移住者と、都市から追われた貧困者とが合流する地点だが、デイヴィスは、これが21世紀の都市風景だという。

このような風景のひとつとしてデイヴィスが引き合いにだすのは、北京市南部に位置する淅江村だ。「スラムの10万人程の住人の大半は、住人の商才と耕作に適した土地の不足で有名だった淅江省の温州からきた。住人の大半は、地元の農民からバラックを借りて、氏族を中心とするギャングによって組織され、北京で着られる安い冬服と皮革製品がつくられる搾取工場スウェットショップで働いている、公の居住証明書のない若いが教育のないmangliu(盲流)、つまりは『浮浪民』であった」(Davis, 2006:112)。
 淅江村は正式な地名ではない。北京の中心部から南に、バスで40分くらい離れた大紅門に位置するスラム地帯の呼び名だが、ここに淅江省出身の人々が多数住みついたからこう呼ばれている。賑やかな街並み(けれども中心部とは違って貧しい)を通り抜けると、突然、いかにも地方的な風景が広がりはじめる。バスの窓越しに見えてくる風景でまず印象的だったのは、川沿いに点々と並ぶ掘っ立て小屋の群れ(shanty town)だった。
 
バスを降りてすぐ、整備された大通り(『スラムの惑星』が強調するのは、淅江村が大規模なスラムクリアランスにより破壊されたという事実だが、おそらくはこの破壊のあとに建設されたのだろう)の横に場違いな感じ ── こういう突拍子のなさがいかにも中国的なのだが ── で建っている住居(何と表現したらよいのだろうか?)が目に入る【写真2】。さらに動物の死骸だろうか、嗅いだことのない臭気が周囲に満ちている。
 さらに歩くと、とんでもない光景を目にすることになる。無数にひしめく廃屋は無断占拠スクワットされている。住まわれているだけではなくて、何かをつくる作業所としても使われているようだ【写真3】。ニワトリが水溜りだらけの細い路地を歩き回っている。鍛冶屋らしき人の周囲に何とはなしに集まる人々の多くが、誰と話をするでもなく、ぼんやりしている。
 川べりで下着を洗う女性(おそらくホームレス)を上から見ている人々も、多くが無言だ。トイレがないからか、道のど真ん中で脱糞している少年のまわりには誰もいない。無人のところを見計らっただけかもしれない。でも、ぷっつりと周りから切り離されたような、現実らしからざる光景に見えた。
 
市場のようなものはあったし、掘っ立て小屋街の一隅でトランプらしき遊戯に興じる男たちもいた。それでも、中心街の建設現場の労働者が集うところに生じてくる活気が感じられない。正規の都市戸籍のない不法移民だからか、貧しさというだけでなく、根無し草感が漂っている【写真4】。凝集していく動きが欠けている。

寄る辺のない荒涼とした場所と、そこに住む人々の様子を思い浮かべていたら、小学生のときに愛読していた『北斗の拳』を思いだした。詳細は忘れたが、読んでいたときの感覚ならば思いだせる。主人公が宿敵たちと死闘を繰り広げるというストーリーの前提にあったのは、「世界の滅亡」だった。
 199X年に滅亡した世界では、わずかに生き残った力なき人々には、寄り集まることよりほかに生き延びていくための方法がない。しかもそこは暴力的な男たちによって制圧されてしまうという危険にさらされている。1980年代の子供が素朴に想像していた未来図の一つは、このような滅んだ世界であったのだ(もちろんそれだけではなかっただろうが)。
 つまり淅江村の光景は、あの漫画に触発されて思い描いた滅亡の絵図に応じるような、具体的イメージだったということになろう。だからといってこれは虚構ではない。否定しようのない、現実のものである。
 
 それではこのようなスラムについてどう考えたらよいのか。まずは、北京の中心部の、開発されていく空間とどう違うのか、これとどういった関係にあるのかを問う必要がある。中心部も、スラムが位置する周辺部(都市と地方の境界地帯)も、同じ北京の一部をなすが、あきらかに異なる空間である。にもかかわらずいずれもが、北京の再開発という一つの過程の産物なのだ。
 そうでありつつ、後者は解体され、立ち退かされることの危険にさらされているが、当然この危険は、前者における開発が進行していくこととの関連で考えるべきものである。このように、中心と周辺部は、互いに異質でありながら、一つの過程において結びつけられており、しかもその間には力関係がある。
 
つまり北京においては、矛盾(アンリ・ルフェーブルにならって「空間の矛盾」ということもできよう)が、かつて毛沢東がいった「都市‐農村」の二項対立的矛盾とは別の形態において発生しつつあると考えることができないか。


*淅江村を案内してくれた佐藤賢さんに感謝します。
 
 
 
篠原雅武(しのはら・まさたけ)

日本学術振興会特別研究員PD。都市論・社会思想史専攻。著書に『公共空間の政治理論』(人文書院)。





【写真1】

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★1 倉沢進・李国慶『北京 ── 皇都の歴史と空間』中公新書、2007年。

★2 Davis, Mike. 2006. Planet of Slums, London: Verso.

★3 現に2007年2月には、大阪の長居公園でテント村が破壊された。くわしい事情については、当事者が中心となって作った冊子『それでもつながりは続く ── 長居公園テント村行政代執行の記録』を参照のこと。
<参考Webサイト>

【写真2】

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【写真3】

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【写真4】

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