洞爺湖サミットに反対する国際旅団は、現地キャンプで何をしたか
矢部史郎(現地・豊浦キャンプ本部)

1、はじめに

速度には2つの速度があります。
 
1つは、量を時間で割ったもの、またはたんにそれにかかった時間によって示すものです。移動の速度については、移動した地点Aから地点Bまでの距離を移動時間で割った量(距離÷時間)、またはたんに移動時間によって示します。これは起点と終点を設定することで数量化することのできる速度です。移動について私たちが普段つかっているのは、狭義の速度(距離÷時間)です。
 
もう1つは、数量化できない速度です。これは、起点Aを設定することなく、ここやあそこ(地点B、C、D…)に忽然とあらわれるような仕方の速度です。あるものや人が地点Bに現れるとき、通常はそれがどこからやってきたのかわかりません。起点となる地点が確定できないのです。だから私たちは見慣れぬ人に向かって、彼がどこからやってきたのかを尋ねます。つまり地点Aを問うのです。そうして地点Aと地点B(ここ)を設定して、ある量の手がかりをつかみ、少し安心するというわけです。しかしこれは、速度の全体から狭義の速度(距離÷時間)を取り出して納得しているにすぎません。速度にとって量とは、便宜的な想定にすぎないものです。距離の量(起点~終点)を設定しなくても、つまり、彼がどこからやってきたのかを問わなくても、速度を感得することがあります。いつ、どこから、どのようにやってきたのかを知ることができないまま、その速度の高まりを感得することがあるのです。
 
ある年ある日、山東半島の農村に、馬に乗った異人の群団があらわれます。翌年に彼らはインドの交易都市を訪問し、さらに翌年には北欧の小国を襲撃します。地点B、C、Dを往来するこの群団の速度を、彼らが騎乗する馬の速度にもとめても、それは現象の表面を切り取っているにすぎません。また、ある年ある日、イタリア半島の商業港に海賊の船団があらわれます。海賊の本拠地(地点A)がチュニジアなのかイベリアなのかを推察し、その移動距離と移動時間を算出したとして、それは海賊の速度の秘密を解明したことにはなりません。
 
狭義の速度(距離÷時間)とは、定住生活を営む人々が、高速の騎馬群団や海賊団を観察するやりかたにすぎないのであって、当の騎馬群団や海賊団が同じようなやりかたをしていたとは考えられません。なぜなら彼らの実践は、定住民が絶対視しているもの、領域の概念や距離の尺度というものを、根底から覆すものだからです。
 
そもそも速度とは、量を無化していく運動です。速度を自らのものにするためには、量と格闘するなかで、同時に、量を忘れなければならないのです。長大な距離の遠征が実践されるとき、人は距離を忘れ、それが「遠征」であることを忘れているのです。
 

2、ある日ひとりの大学生が豊浦町役場を訪れる

4月中旬。春の日差しが体を暖かくする頃、1人の大学生が豊浦町の無人駅に降り立ちます。豊浦町役場を訪れた彼は、豊浦町の公園を管理する担当係を訪ね、7月の初旬にキャンプ場を貸し切りたいと申し出ます。彼がもとめたのは「豊浦町海浜公園」。JR豊浦駅から徒歩10分、役場から徒歩5分に位置する浜辺のキャンプ場です。7月の始めから約10日間、このキャンプ場を貸し切って、数百人のテントを設営する計画だというのです。このキャンプ場から海を背にして山をみあげると、山頂に大きなホテルが見えます。このホテルが、「ザ・ウインザーホテル・洞爺」、G8諸国の首脳と国家官僚が集まるサミット会場です。洞爺湖を前面におしだしたサミット開催ポスターには、この浜辺のキャンプ場も、豊浦町も、まったく映っていません。ホテルから洞爺湖を望む側を正面とすれば、豊浦町は背面にあたるのです。浜辺のキャンプ場から山頂のホテルまでは、直線距離で5キロ。一般にはほとんど注目されないこの海岸が、サミット会場のもっとも至近に位置していたのです。
 
北海道豊浦町は道央の南側、内浦湾に面した町です。札幌市から国道230号線を南下して約2時間、なだらかな山を越えると内浦湾につきあたります。そこから海沿いのトンネルをひとつ越えれば、そこが豊浦町です。町を横断する国道37号線を西に進めば長万部、東に進めば洞爺湖町、伊達市を経て、室蘭に至ります。2008年のG8サミット会合は、本州の複数の都市を約4ヶ月かけて開催され、その最後の締めくくりとなるG8首脳会合が北海道洞爺湖町で行われました。G8首脳の警備のために、洞爺湖町とその周辺には、2万人とも2万5千人ともいわれる大量の警察官が配備されました。サミット警備のための特別予算は、名目だけでも156億円。全国の都道府県警察から、警察官と警察車両が動員され数ヶ月前から常駐していたのです。
 
豊浦町役場の担当者は、大学生の申し出を丁重に断ります。サミット開催期間中は誰であれキャンプ場の利用はお断りしている、と。そもそもサミット期間中は、警察が厳戒態勢を敷きます。警察は、洞爺湖町周辺のキャンプ場について、全面的な利用禁止を要請していたのです。
 
その3日後、今度は3人の男が豊浦町役場を訪れます。3人は穏やかに、しかし執拗に、キャンプ場の貸し出しを要求します。役場の返事は変わりません。
 
3人は豊浦町役場を出た後、日が暮れるまで豊浦町を歩きます。地図を見ながら海岸と山道を歩き、歩いた時間を計測します。地面の状態と勾配、道幅と交通量、川と橋、森林と草薮の状態、そして地点ごとの展望を頭に叩き込み、地形を体に滲み込ませるのです。豊浦町からサミット会場に至る地形のなかで、数百人規模の人々がどのように動きうるか、機動隊と警察車両がどのように配備されるかを、想定・検証するのです。そしてもっとも重要なのは、数百人規模が野営するための、平坦な乾いた土地を見いだすことです。炊事のための飲用水も必要です。キャンプ地は警察に包囲されない地形であることが理想的です。彼らは、豊浦町に存在する海岸や森林公園すべてのキャンプ場を見てまわり、役場との交渉を続けます。同時に、洞爺湖町、壮瞥町、伊達市にも、キャンプ場の貸し出しを要求し交渉にあたります。
 
ある土地に大きな集団が登場するとき、そこには必ず前兆があります。旅団には斥候がいるのです。はじめはほんの数名が、土地を調べ人を知るためにやってきます。大陸を横断する騎馬群団も、大洋を亘る海賊団も、その本隊の旅程を決するために、斥候をもつのです。
 
斥候は、土地の解明に貪欲な地理学者の性格をもち、同時に、土地という概念を忘却した根無し草でなくてはなりません。理想的な斥候は、ある土地に住まうことなく、ただ旅団のなかにのみ自らの根拠を見いだすような人間です。この斥候が、充分に忘却し、充分に調査し、速度を高めることで、旅団本隊の速度を保持することができるのです。
 
また別の例で言えば、こうした斥候の姿を、大学の起源にもとめることができるでしょう。近代の大学が制度として確立される以前、ヨーロッパを放浪する大学人たちは、見聞し思索しながら黙々と歩いたのです。知性のすべてにおいて貪欲で、同時に、なにかを決定的に忘却した人々が、ヨーロッパの各地を放浪していました。土地に住まうことなく、ただ大学の旅団にのみ自らの根拠を見いだすような人々が、大学の黎明期をつくっていったのです。
 
2008年の反サミット運動を準備するなかで、ある東京の大学生は数ヶ月前から札幌に移住しています。また、先遣隊として何度も北海道に通いつめ、キャンプ建設を中心で担ったのは、大学生と大学院生たちでした。少数で動く大学生・院生たちが、斥候として高い速度を保持していたということを強調しておきたいと思います。これは必然とはいわないけれども、たんなる偶然ではない、ある系譜を示しています。彼らはサミットを準備する間ほとんど学校に通わず、学校を忘却し、同時に、膨大な思索と実践を自らに課すことで、大学人としての性格を強めていったのです。本来的に根無し草で、すべてを自在にするために考える人々がいます。彼らの働きが、警察の厳戒態勢をおしのけて、北海道現地に反対派の部隊を登場させたのです。

3、なぜサミットに反対するのか

6月初旬、反サミット運動のなかでも特に行動的なグループ「NO! G8 Action」が、反サミット行動を訴えるリーフレットを作成・配布しました。表紙の題字には、「サミットなんかいらない」「北海道洞爺湖サミットを包囲しよう」と書かれています。黒猫のイラストを付した三つ折りのリーフレットは、札幌・仙台・東京・京都・大阪・広島・福岡に配布されました。
 
このリーフレットは、世界中の人々がなぜG8サミットに反対するのかを、簡潔に整理しています。全文を引用して紹介します。
 
G8サミットってなに?

2008年7月、北海道洞爺湖でG8首脳国会議(G8サミット)が行われます。日米英仏独伊加露8か国の首脳及びEUの委員長が参加して開催される首脳会議です。
 
サミットは1975年、2つのニクソンショック(ドルショックとオイルショック)を背景にして生まれました。アメリカの特権的な地位が揺らぎ、その危機を解決するために、日欧の諸国が招集されたのです。
 
サミットは、通貨と貿易、安全保障などを先進国間で調整するための私的な会合です。資本主義の主要国が協調し、世界の富を独占するための仕組みを考える場がサミットです。そうした世界戦略の中心となってきたのが、新自由主義(ネオリベラリズム)と呼ばれる政策です。
 
現在の世界的な貧困は、サミット会合が主導する世界政策=新自由主義政策によってつくられました。
 
貧困と恐怖をひろげる新自由主義

新自由主義の誕生は、1973年。南米チリの軍事独裁政権によって実現されました。アメリカの支援を受けたピノチェット将軍は、クーデターによって民主政権を倒し、軍事独裁政権を樹立します。このときチリの軍事政権の経済政策を担当したのが、アメリカの経済学者=新自由主義者たちでした。その政策は4つの柱からなります。
 
1 貿易と投資の自由化
2 社会保障の削減と公的事業の民営化
3 労働組合・農民団体等の禁止
4 軍備と警察の強化
 
この政策は失業と貧困を拡大させ、厳しい警察国家をもたらします。チリの経済は一時的なバブル景気の後、深刻な不況に陥っていきます。生活に困窮する民衆の声は、警察によって封じ込められてしまいます。
 
チリに続き、イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権、日本の中曽根政権が、この政策を自国に適用します。80年代にはIMF(国際通貨基金)が、アフリカ諸国に構造調整政策(新自由主義政策)を強制します。これによって、農村は荒廃し、公共サービスは麻痺し、社会保障はなくなり、国民経済は崩壊していきます。
 
90年代に入ると、新自由主義政策に反対する大きな国際運動が始まります。
 
94年、メキシコの南端で、サパティスタ民族解放軍が蜂起します。サパティスタはNAFTA(北米自由貿易協定)の脅威を訴え、世界規模の反対運動を呼びかけます。95年、MAI(世界投資協定)に反対して、韓国やフランスで大きな運動がまきおこります。この反対運動によって、MAIは廃案に追い込まれます。97年、通貨危機に陥った韓国にIMFが介入します。IMFの内政干渉に対して、農民と労働者の激しい反対運動がまきおこります。99年、アメリカのシアトルでWTO(世界貿易機関)の閣僚会議がおこなわれます。この会議は、街中にあふれる抗議行動によって中止に追い込まれました。
 
民主主義を否定するサミット会合

G8サミットは、「物事をトップダウンで決定する」(外務省HP)ことを公然と宣言しています。彼らは、民主的でないやりかたで「適切な決断と措置を迅速に行うこと」(外務省HP)ができると考えているのです。
 
この非民主的な会合は、「適切な決断と措置」を行ってきたのでしょうか。事態はまったく逆です。この密室の会合は、世界中に混乱を引き起こしてきました。少数の者が富を独占し、世界の大多数の人々が生活を破綻させられてきたのです。
 
日本も例外ではありません。国家官僚と巨大銀行、警察や自衛隊がはばをきかせ、大多数の人々がぎりぎりの生活をしいられています。地方経済は疲弊し、若者は失業し、高齢者が棄てられる、こんな絶望的な社会をつくったのは、新自由主義政策であり、サミット会合なのです。そしてこんなひどい政策が平然とおこなわれてきたのは、サミットが、民主主義の否定から始まっているからなのです。
 
私たちはG8サミットに反対します。なぜなら私たちは、民主主義をもとめるからです。自分たちの生活を、少数の特権階級に、勝手に決められたくないのです。自分たちの生活は、民主的なやりかたで、自分たちの声と実情をきちんと反映するやりかたで決めたいと思うのです。金持ちと警察ばかりが肥え太るような社会は、民主的な社会とは言えません。民主主義の実現をもとめて、ともに声をあげましょう。
 
NO! G8 Action
 
リーフレットを作成した「NO! G8 Action」は、前年のドイツ・ハイリゲンダムサミットに遠征した若い活動家たちを中心に形成されていました。彼らは、洞爺湖サミットに対抗する大衆的で国際的な運動をつくるために、サミット開催の1年前から準備を始めました。その準備作業は多岐に亘ります。
 
1、国内の運動団体・活動家との連絡調整
2、北海道の運動団体・活動家との連絡調整
3、海外の運動団体・活動家との連絡調整
4、人権団体・弁護士グループとの連携
5、市民メディアグループとの連携
6、知識人の国際フォーラムの準備
7、ポスター・リーフレットの作成、入門書の出版
8、札幌と洞爺湖でのキャンプ地設営
9、現地行動計画と北海道警察との交渉
10、通信システムの構築・防衛
11、資金調達
 
こうした主要な作業に、さらに諸々の雑務が加わります。「NO! G8 Action」は10名に満たない小グループでありながら、国内外のさまざまな場面に登場し、行動を提起し、運動の連合全体の方針に関与していきました。
 
運動を準備するにあたって彼らが参照していたのは、ハイリゲンダムサミットでの国際行動です。ハイリゲンダムのサミット会場周辺には、反サミット運動による3ヶ所のキャンプ地が設営され、国内外の活動家が野営していました。キャンプ地の入り口はバリケードが設置され、警察車両の進入を防いでいます。キャンプ地のなかでは、さまざまな情報が掲示され、炊事用のテントでは食事が配られ、行動のための会議が各所で開かれています。そうして、サミット開催日の朝、約1万人の活動家がキャンプ地を出発し、サミット会場を包囲していったのです。
 
サミット会場付近にキャンプ地を設営するという手法は、2003年、フランスのエビアンサミットから始まりました。2005年、イギリスのグレンイーグルスサミットでも反対派がキャンプ地を設営し、2007年、ドイツのハイリゲンダムサミットでは、ついに数万人規模のキャンプが登場したのです。
 
こうした大衆的で国際的な行動を北海道・洞爺湖でも実現したいと、彼らは考えたのです。