鴨川コモンズ、バーベキュー、反権力
篠原雅武

2008年6月8日、京都の鴨川デルタ(京阪電車出町柳駅から歩いてすぐのところ)で、「反G8鴨川コモンズ」がおこなわれた★1。これは、「G8洞爺湖サミットにむけて、京都でもなんらかのかたちで抗議行動をする必要があるのでは?」という、ちょっとした会話をきっかけとする、いわば突発的なイベントであった。
 天気予報は雨ということもあって開催が危ぶまれたが、好天に恵まれ、最大で約80人が集まるという、予想以上の盛況となった【写真】。
 
当日は、まず14時過ぎから、本多さゆみによる北海道でのキャンプに関する説明と、樋口拓朗によるインフォツアー報告が行われた。そして、酒井隆史、山森亮、廣瀬純の3氏を中心とするディスカッションとなり、交流会へと移行した。イルコモンズ(小田マサノリ)が持参した映像と音があったせいもあろうか、活発な交流が、およそ19時過ぎまでつづくことになった。
 洞爺湖でのキャンプという〈共〉の場へとそのまま連結してしまいそうな、いわばプレキャンプ的な集まりだったと、言うことができるかもしれない。炊き出しのカレーやビール、物々交換の場などもまた、そういう雰囲気をつくりだすのに、一役買ったと考えられよう。

このイベントについての会議は、2回である。最初の会議(5月3日)では、日時、場所、ゲスト、さらにはだれがビラの原案を書くかということが決まり、内容については、漸次決めていけばいいだろうというように、ある意味でルーズな会議だった。
 しかし、「大学の講義室を借りてやるという、ありがちなイベントにはしない」「そのためには野外でやるべき」「だったら鴨川デルタだ」という場所をめぐる議論は、今にして思えばとても重要だったし、この決定がこのイベントのすべてを決めたといっても、過言ではないだろう。
 
そして、2回目の会議(5月28日)になってようやく、当日の段取りが大枠で決められた。が、内容については、当日の即興に委ねることが確認された(じっさい当日は、テントを建てるのに手間取って開始時間が遅れた。にもかかわらず、集まってきた人たちは、とりたてて退屈することもなく、その場にいた人と語りあい、あるいは会場設営を手伝ってくれた。つまり、会場を作ることがすでに〈共〉の経験であったように思う。そしてディスカッションの内容も、その場の雰囲気にあわせて決められていった。何から何まで即興だった)。
 
タイムスケジュールといった枠組みは、たいして重要ではない。むしろ大切だったのは、「どうして、そういうことをやる必要があるのか」をめぐる問いだったのだ。これは、事前に決めた型のとおりに、内容を調整することではない。こういった問いを欠くならば、枠がいくら立派になったところで、所詮はただの形骸でしかない。
 そして、この問いに加えて、さらに必要だったのは、内容をどういう方向へと導いていくかについての、ある程度の見通しであった。くどいようだが、見通しをたてつつそれを言葉にしていくことと、枠組みを定め、その枠組みをなぞるようにして言葉をつらねていくことは、おそらく違う。
 見通しは、あくまでも見通しでしかなく、出来事の進展にあわせて、作り変えていくことが出来るものだ。それは、逸脱を許容する。だが、枠組みはちがう。内容を定め、従えていく。従わせることのできないものは、枠へと矯められていくか、もしくは無視され、排除されるだろう。この違いへのこだわりは、ビラの呼びかけ文のスタイルにおいてあきらかになっているのではないだろうか。
 
これは、具体的な内容よりもまず、なぜこういう集まりが必要なのかを明確に打ち出す、いわば宣言文である。少し長いが、以下にそのまま引用しておく。
 今年7月、北海道の洞爺湖でG8サミットが開催される。G8サミットとは、アメリカ、イギリス、イタリア、ドイツ、フランス、カナダ、日本、ロシアの首脳が、密室に集まり、今後の世界のありかたを考える会のことだ。
 密室だから、そこでなにが話され決定されるのかは、ごく一部の人(各国首脳、閣僚、官僚、大企業…)にしか知らされない。もちろん私たちは、後でそこで決まったことをマスコミから(ものすごく不十分に)知らされるだけだ。
 またここで話題となるのは、つまるところ大企業の利潤だ。多国籍の大企業がどれだけ金儲けできるかが問題なのである。そのためにネオリベラリズム(新自由主義)という「資本のための自由」が世界中でひろめられているのである。それは、不安定的で強制的な労働(労働法制の改悪の帰結)であり、貧困の放置(社会保障の削減などの帰結)であり、水源や教育や医療や福祉などの公共財の民営化(=私有化=商品化)であり、無制限の環境破壊をもたらしている。
 要するに、戦争であれなんであれ、利用できることはすべて利用して、資本の自由にとってジャマな労働者や農民を保護する福祉システムや共有地などのもろもろの法制度も力づくで破壊するということだ。アルゼンチンやイラクのように、国家そのものが破壊されることもある。
 「G8サミットなんて遠い話」と思うかもしれない。けれども労働や食物や福祉は私たちの生活に直結する。じっさい日常生活のネオリベラル化とそれにともなう荒廃(分断と孤立、雇用の不安定化、消費者への主体化など)はどんどん進行している。それは世界中でおこっていることだ。
 G8サミットに集う首脳や官僚たちは自分が世界の中心だと思っている。しかし、世界に中心も片隅もない。G8サミットが推し進めるネオリベラリズムから自分たちの生活を、自分たちの世界を奪い返そうとする試みは世界中で巻き起こっている。本当に世界をつくるのは無数の「私たち」なのだ。
 今回、私たちが提起したいのは、競争的な市場関係や囲い込み(民営化=私有化)とは別の論理にもとづくような社会的な富である。それはコモンズ(commons)と呼ばれる。コモンズはただ古くからある共有地の意味ではない。今や土地だけでなく、水や食物、さらには集まりと出会いの機会や、人間のコミュニケーションそのものまでも(携帯電話やネットを媒介にして!)資本主義によって囲い込まれつつある状況だ。この状況にあらがって、別の生活形式を想像しつくりだそうとする実践によって生産されるもの、これがコモンズである。
 コモンズについて、みなで集まって考えるだけでなく、じっさいにつくってみる。とりあえず鴨川のデルタを、そういう場所にしてみませんか。もともとは市民が企業による水質汚染を規制する意図で考えられた鴨川条例が、水質より景観やマナー重視の「迷惑防止条例」になってしまったことも批判的に考えつつ。
 当日やってみようと思っていることは、まちづくりやコモンズ論などのワークショップ、川床、農業問題トーク、物々交換、食事会、音楽会などなど。すべて小さな手作りです。
たしかに、何をするのかをあらかじめ知りたいと思う人には、わかりにくいのかもしれない。漠然としているかもしれない。「食事会、音楽会」ならともかく、いったい「川床」とは何だろう? けれども、どういうことが起こるかは、当日にならないとわからない、そういう予期不可能なことを希求している人にとっては、これほどに魅惑的で、わかりやすい文章はない。見通しが、はっきりと言葉にされているからだ。
 こういった、枠組みの説明と区別される宣言文は、現時点で予想可能なことを、あらかじめ述べるためにあるのではない。何か新しい始まりのきっかけになるような、未来へと向けられた文なのである。そこではなにより、G8のトップダウン方式とはまったく違うやりかたで、集まった者たちの相互作用において、場をつくっていくことの重要性が提起されているのだ。