鴨川コモンズ、バーベキュー、反権力
篠原雅武

こういった集まりの場が出来たこと自体、じつに不思議なことである。ディスカッションの際、酒井隆史が言ったように、「鴨川デルタに、人がこれだけ集まってくることそのものが、G8体制への痛烈な批判になっている」ということなのかもしれない。
 国会で継続審議となっている「共謀罪」法案一つとってみても、今では、人が集まることそのものが、犯罪とみなされ処罰されかねない勢いだ。とりわけ、非正規の労働現場において顕著だが、個々人を分断し、孤立化していくことが、現代の管理体制を維持し、強化していくことの基本的条件になっている。じつは、そういうことを問題化するというのも、鴨川コモンズの趣旨の一つだった。
 
けれども、ごく身近なところを見渡すだけでも、このように人が集まってくる機会はつくられていないわけではないし、のみならず、確実に増えている。
 たとえば、この4月から京大では、こういった集まりの場が、コンスタントにつくられていた(4月下旬の白石嘉治講演会、5月下旬の崎山政毅講演会、6月4日の西山雄二講演会)。さらに、多くの人が集まった4月29日のデモ(メーデー「恩恵としての祝日よりも、権利としての有休を!」)なども、このような流れを加速したものといえるだろう。
 また、鴨川コモンズと日程が重なったが、「エポック前夜」という祭りが、6月6日から6月9日にかけて、京大の時計台前、吉田寮、西部講堂でおこなわれた。これもまた、音楽、芝居、上映会、座談会を中心とするいたってシンプルな祭りであった。これのコンセプト文も以下に引用しておこう。
「自治空間をめぐる四日間の祭、エポック前夜」
 
「自治」という言葉にどんな響きを感じるだろうか。
その言葉にあえて特定の色を見ないでほしい。
それはただ、自らの望む世界を諦めずに、ひとつひとつ手作りで積み上げてゆくというシンプルな姿勢を指す言葉に過ぎない。それは原点において、朝目覚め夜眠りに落ちるまでの一日をどんなふうに過ごすかという、ささやかな自律に根ざすささやかな言葉であったはずだ。
今、その原点へ。
この祭はわたしたちがわたしたちの望む世界を鮮やかに描き出すものとなってほしい。そして描き出されたあり得べき世界の姿は、一夜のものと消えるのではなく、次の夜明けを予感させるものであってほしい。わたしたちが自らの手で作り上げる、原点回帰的、村祭この闇の時間に、新しく動き始める朝の兆しを感じて。―エポック前夜。
この祭りでの座談会「こんにちは!場所」【写真】で佐々木祐が語っていたように、90年代は、「自治も運動も死んでいた」とあえていってもいいくらいに、停滞していたように思う。
 阪神大地震と地下鉄サリン事件がおこった直後の、ある種のショック状態にあったときに大学へ進学したような人間には、「何もできない」雰囲気をつくりだす圧力が、言説においても(オウム=連合赤軍といった言説)、じっさいの制度においても(治安・労働・教育などをめぐる法制の改悪)、一挙に増大していった。それでもひたすらに無力を耐え忍ぶしかないという、どうしようもない状態を生きていたように思う。
 もちろん、様々な社会問題をめぐって、いろいろ議論はしていたと思うが、どことなく、空転しているという無力感を拭い去ることはできなかった。さらにいうなら、そういった無力感は、ともすれば反転して、シニカルな姿勢になりやすい。なんともいやな雰囲気が、そこには形成されるだろう。
 
それが、次第に変わりつつある。それも今。何が変わり、何が新たに作られているのだろうか。こう問わざるをえないくらいに、決定的な転換点にさしかかっているのかもしれない。

アントニオ・ネグリが『未来派左翼』で述べているように、現代においては、〈共〉(common)の概念が重要性を帯びているのにもかかわらず、この概念をめぐっては、どういう思考が、どういう実践が可能になるのかについては、考察はまだ十分でない。それはいま始まったばかりなのだ。
〈共〉の概念と経験が再び時代の中心的テーマになっているにもかかわらず、さまざまな共有財を管理あるいは自主管理していくための民主的な手段をまったく構築することができないという事実です。共有財を維持したり開発したりするためには、そのような、多少なりとも明確かつ洗練された民主的手段を構築しなければなりません。★2
鴨川のデルタ一つとってみても、そこは今、バーベキューや打ち上げ花火などの行為を制限する「鴨川条例」の管理下に従わされつつある★3。施行されたこの4月以来、監視員が常駐しており、鴨川デルタでの行動は監視されている。煙が一筋立とうものならすぐ駆けつけてきて、「市民から通報がありました。すぐにやめなさい」と勧告される。つまり、デルタの使用者による自主管理とは別の、京都府が上から課してくる強制的な管理方式が、実施されつつある。
 バーベキューは、以前は普通に、使用者の憩いの機会として行われていた。また、たとえば打ち上げ花火など、危険とされる行為についても、使用者がおたがいに配慮して、安全を確保しあうというようにして、鴨川は管理されていた。上からの条例による管理とは別の管理が、明文化されていなくても実践されていたし、鴨川の使用者たちのあいだで共有されていた。
 それにたいする信頼を欠くのが、鴨川条例ではないか? もっと使用者のことを信頼してよいではないか?★4

いずれにせよ、現在問題になっていることの根本には、〈共〉をめぐる路線の対立がある。それを囲い込み、私有化=民営化するか、それとも、このような管理方式とは別の、〈共〉のあり方に即した民主的な方式を構築していくか、これが争点である。たとえば、The Commoner というウェブマガジンで公開されている一連の文章は、まさに〈共〉についての思考が、展開の途上であることを例証するものといえるだろう★5。
 
なかでもとりわけ、ジョン・ホロウェイの「権力を掌握せずに世界を変えることについての12のテーゼ」★6がわかりやすい。そこでは、〈共〉をめぐっての2つの路線が依拠する力=権力powerについて、明快な議論が展開されている。
 すなわち、「上からの力」power-overと「行うための力」power-to-doである。前者は、現在のネオリベラルな体制(国家の治安=軍事力強化と市場原理主義との結合)に対応する権力であるが、ホロウェイはこれを争点にしても、それが別種の「上からの力」にとってかわられるだけでは何もかわらないという。必要なのは権力奪取による体制変革なのではなくて、その解体なのである。そして、解体にとって必要なのが、各人の、「行うための力」である。
社会を変えようとするいかなる試みであれ、そこには行動が、行為が含まれている。逆に行動は、わたしたちには行動する能力が、つまりは、向かう力があることを意味している。わたしたちはしばしば、「力」をこういう意味で、善きものとして用いる。つまりはたとえば他者とともにする一致した行為のおかげで「力がある」と感じるようになるときのように。こういう意味での力は、行動に根ざしている。それは行うための力power-to-doなのだ。
ホロウェイは、この力が、他者とともに営まれるところに生じてくるのは、対抗権力counter-powerではなく、反権力anti-powerであるという。そして、鴨川コモンズで試みられたのも、結局は反権力を生じさせていく試みだったのだと思う。
 「上からの力」を構築し、そこから対抗運動を行ったところで、それは、G8体制の権威主義のコピーにしかならない。つまり鴨川コモンズは、そういうコピーの立場からすると理解はできないかもしれないが、効力はある、こういった対抗運動を構想していくための一つの実験であったといえるだろう。
 そして、あの場にいた人たちは、みな楽しそうだった。その限りでは、実験は成功したのである。