アルゼンチンの息吹
1.「IMFの優等生」から社会運動の発信地へ

藤井枝里

 
 
アルゼンチン、コルドバ。いま私は、交換留学生として、この街の大学に通っています。コルドバに着いたのは、2月の末、夏の終わりの頃でした。それから、早くも2ヶ月が経ち、大学生活にも慣れ、日々慌ただしく過ごしています。
 時差はちょうど12時間、季節も正反対という、日本からは遠く離れたアルゼンチンですが、いまや新自由主義、あるいは米国の帝国主義への新たな対抗軸として、日本にとっても目が離せない存在となっています。
 
そこで、いったいここで何が起こっているのか、どのような運動が具体的に取り組まれているのかなどを、少しずつ紹介していければと思います。

「突然、すべて失った」──新自由主義経済の破綻

それでは、今回は第1回目ということで、アルゼンチンにおいて社会運動が興隆するに至った歴史的背景から、簡単に紹介したいと思います。
 
これまでアルゼンチンは、大きな新自由主義の波を2度経験しています。まずは、76年からの軍事政権期、そして次に90年代のメネム政権期です。ともに背景には、膨大な対外債務の累積と、インフレの進行がありました。
 クーデターで政権を握った軍部による改革は、不十分なインフレ抑制策によって、大規模な資本逃避と通貨危機を招きました。1982年、威信を取り戻そうとイギリスに仕掛けたマルビーナス戦争(フォークランド紛争)に敗北し、翌1983年民政に移管しました。
 
ところが、80年代末には急速に経済が悪化し、5,000%近いハイパーインフレを記録するという事態に至ります。ここで、89年に登場したのが、メネム大統領でした。彼は、1ドル―1ペソの固定相場制を導入し、見事に積年のインフレを収束させたのです。
 元来、労働者を支持基盤としてきた正義党が、IMF(国際通貨基金)に優等生として褒め称えられるほど、新自由主義政策を貫徹するという、一八〇度の転換でした。
 
こうした奇跡的な経済回復の影には、20%に達する未曾有の失業率と、不完全労働がありました。最低賃金の凍結、短期雇用の容認、解雇補償金の引き下げ、電話・電気・郵便事業など公共事業の民営化…。その他、あらゆる新自由主義改革が、徹底的に進められたのが、90年代でした。
 もちろん、国内産業への打撃は決定的で、90年代後半には、対外債務の返済負担は増加し続け、海外への資本逃避にも歯止めが利かなくなりました。
 
ついに、2001年には、対外債務のデフォルト(返済停止)が宣言されました。経済は完全に麻痺し、前代未聞の金融危機に発展することになったのです。20世紀前半は、アメリカやイギリスに準ずるほど豊かな国であったアルゼンチンですが、この時期には、なんと約半数の国民が、貧困ライン以下の所得水準に陥ったと言われています。
 2001年12月19・20日に起こった民衆蜂起や、その他の社会運動の興隆には、こうした背景があったのです。
 
この頃のことを、ある友人は、こう話してくれました。
 「どんどん、生活に必要なものが買えなくなっていった。テレビでは、赤ちゃんに食べさせるものがなくて、小麦粉と水を混ぜただけのものを与えているお母さんが、泣きながら話していた。治安が悪化して、スーパーや洋服店、銀行では、いつも強盗の危険にさらされていた。」
 「道路を封鎖してバスを止め、荷物をぜんぶ盗んでいくピケテーロ集団もあった。コルドバでは、ペソの代わりにレコールという紙が、お金として使われるようになった。でも、病院ではレコールは受け付けてもらえず、ペソを持っていない貧しい人たちは、病院にも行けなくなった。みんな、突然すべてを失った。」

民衆蜂起──新たな社会運動の主役の登場

こうした状況のなか、とりわけ2001年の民衆蜂起以降、新自由主義の破綻から生まれた様々な社会運動が、各地に広がっていきました。あるいは、以前から存在していたそれらの運動が、可視化され、大衆性をもったと言ったほうがより正確でしょう。
 道路を封鎖して、政府に抗議するピケテーロ運動。地域通貨を用いた、社会的経済の取り組み。破産した工場や会社を、労働者が自主管理で再開する回復会社運動。こうした一連の運動が、互いに連帯し、社会的な力をもって現れてきたのです。
 
それまで、アルゼンチンにおける社会運動の中心にあったのは、労働組合でした。しかし、これらの新しい運動に共通して指摘されているのは、主役となるのがそうした伝統的な枠組みの外にいた人々、つまり、失業者・女性・学生などの入り混じった、いわゆる一般の人々であるということです。
 もはや、社会運動は、組合員や左翼活動家の専売特許ではなく、地域に開かれた意思表示の空間として、また、人々のつながりを再構築していく、空間としての機能を果たしているのです。

社会のひずみと、あまりに平穏なコルドバの日々

さて、民衆蜂起から約5年半が経ったいま、それらの社会運動は、どうなったのでしょうか? 「経済危機からの脱却に伴って、その多くが解消されていった」と言われているのは、事実なのでしょうか? 本当に、ピケテーロスは、「政府から補助金をせびるために、善良な市民の通行を妨害するだけの集団」になってしまったのでしょうか?
 これらの疑問を抱いて、はるばる日本からやって来た私を待っていたのは、あまりに平穏なコルドバの日々でした。青い空、コロニアルな街並み、広場にはのどかに散歩する人々…。
 
気がかりなことと言えば、夜遅くまで聞こえる馬の蹄の音。つまり、馬の引く荷台に乗って、ダンボールなどの廃材を集めて暮らす、カルトネーロス(廃品回収を生業とするインフォーマルな労働者をスペイン語でこう呼ぶ)の姿くらいでした。荷台の上には、まだ4歳くらいの子どもや10代の女の子もよく見かけます。
 確かにそこには、社会のひずみが存在しているのに、人々は何事もないかのように、日々を過ごしていく…。米国の帝国主義を批判する南米だからといって、左派政権のアルゼンチンだからといって、学生運動の歴史を誇るコルドバだからといって、日本での生活と何が違うというのだろう…。

個別の要求を超えて、様々な運動体が結集

半ばこうした思いに駆られていたある日、大きなデモと集会があるというので、さっそく行ってみることにしました。3月23日、クーデター31周年記念日の前日でした。
 
デモ隊は、この静かな街のどこに隠してあったのかと驚くほど、巨大な横断幕やプラカードを掲げ、あちこちの通りから集まってきました。いくつもの通りをふさぎながら、普通は歩いて15分の道のりを、約2時間かけて、中央広場に到着しました。
 もうすっかり日の暮れた広場には、特設ステージが設けられ、集まった1万人の人々が、歌い踊りながらスローガンを叫びます。
 「行方不明者はここにいる!」「私たちは赦さない! ジェノサイドの容疑者を監獄に!」「フリオ・ロペスを返せ!(軍事政権を裁く公判における、重要証人。半年以上前から、行方不明になっている。)」
 
ここで叫ばれたのは、軍事政権による3万人の行方不明者の真相究明だけではなく、あらゆる不正義に対する抗議、そして人権への要求でした。個別の要求を超えて、より大きな次元におけるスローガンの下に、失業労働者運動・ピケテーロス・学生団体・社会主義運動、さらには同性愛者団体など、様々な運動体が結集しているのです。
 これが、コルドバで私が初めて目にした、「社会運動」というものでした。それは、普段の生活からまるで想像のつかない、それでいて確かに存在している、意志をもった人々の姿でした。
 
*初出は、『人民新聞』2007.4.25(第1276号)。ただし、ウェブでの再録にあたって、『人民新聞』発表時より、一部を改訂・変更しています。