── 「市民社会の外から撃つのではなくて、市民社会のなかから撃つ」

 

運動と正常化 ── 吸収された「五月広場の母たち」

佐々木

たしかに、アルゼンチンに関していえば、女性や失業者や貧民が、中産階級と結びついて、2001年12月の民衆蜂起につながった。しかし、時間が経つに連れ、それをまとめておくものがなく、ばらばらになってしまった。 そのことはやはりアルゼンチンの経験として、私たち自身もきちんと総括して、教訓化しておかなければならない★1

 

廣 瀬

ピケテロス★2たちの運動が、弱体化しているというのは本当です。
 
キルシネル★3が大統領として出てきたときに、あくまでも言説上でのことですが、「反ネオリベラル」「ポスト・ネオリベラル」をはっきりと掲げた。さらにまた、キルシネルは「五月広場の母たち」★4を、完全に自分の味方につけた。「五月広場の母たち」の運動は、単に独裁時代に行方不明になった人たちの母親の人権運動というだけでは、まったくありません。
 「五月広場の母たち」は、アルゼンチンにおける様々なラディカルな運動にとって、文字通りの中心点あるいは結束点になっており、彼女たちが絡んでいないような運動は、ほとんどないと言っても過言ではないほどです。キルシネル大統領は、そうした彼女たちを見事なまでに味方につけたわけです。
 
キルシネル自身もペロニスタ左派★5で(今度大統領になった、夫人のクリスティーナ★6は、もっと先鋭的だったそうですが)、70年代前半の闘争では、多くの友人、同志を失ったはずです。彼はその立場から、軍事独裁政権時代の虐殺や、ジェノサイドを主導した人間を恩赦にしてきたこれまでの法律を撤回し、またそうした法律を守ってきた最高裁の人間を全員追い出すと約束したんです。それで「五月広場の母たち」は、完全に親キルシネルになったわけです。
 それは実際、まったくもって見事な吸収でした。キルシネルが大統領になると、「五月広場の母たち」は、大統領府の前にある五月広場で、30年以上にもわたって毎週木曜日の夕方にやっていた抗議行動に、終止符を打ったぐらいです。ついに仲間が政権をとったので、私たちにはもう活動する必要がなくなったというような感じなわけです。
 
もうひとつは、キルシネルの大統領就任以降アルゼンチン社会のなかで、「正常化」を求める声が高まっていったという理由もあるでしょう。
 2001年の民衆蜂起以前は、ピケテロスの子どもは「お前、ピケテロスの息子なのか」と学校で馬鹿にされていたけど、民衆蜂起後2年間ぐらいは学校で「ピケテロスごっこ」をやるくらいになっていた(笑)。それが、その後「やっぱりピケテロスって危険だよね」という風潮に、また戻っていってしまった。ピケテロスがいないような、「正常な」状態を回復したいという風潮が高まっていったというわけです。 この意味では、キルシネルの次に、その夫人のクリスティーナが選ばれたというのは、ついにその「正常化」が果たされたということじゃないでしょうか。
 
もちろんピケテロスはまだあるし、これからも何らかの運動は出てくると思いますけど、とりあえずいま起きていることは、そういうことなんじゃないかと思います。

「市民社会」の内と外 ── サパティスタとピケテロス

佐々木

サパティスタとピケテロスの違いについては、どうお考えでしょうか。

 

廣 瀬

サパティスタとピケテロスとのあいだには、共鳴しているもののほうがずっと多くあると思うけど、それでも違いを挙げるとすれば、そのひとつは、やはりピケテロスが「市民社会」をうまい具合に味方につけられなかったことにあるのではないでしょうか。
 これは、もちろん、サパティスタの場合には運動が山奥で展開されており、多くのメキシコ住民には、ほとんど目に見えないものであるばかりか、正直に言って「やりたければ、勝手にやれば」ということもあるでしょう。
 
これに対して、ピケテロスのほうは、大都市郊外で運動を展開していて、何かというと橋を渡ってブエノス・アイレスのど真ん中になだれ込んでくるなど、つねにアルゼンチン住民の視界の内側に存在している。
 民衆蜂起直後の国民的熱狂のなかでは、自分たちのダイナミクスをこの上なく体現してくれている輝かしいものとして、目に映っていたかもしれませんが、その熱狂が冷めていくにしたがって、徐々に「目障りなもの」になっていったのではないでしょうか。そして、結局のところ、「ピケテロスは危険だから、社会保障でも受け取って、どこかでおとなしくしていてほしい」ということになったわけです。
 
しかし、こうした可視性の問題とは別に、サパティスタがつねに「市民社会」を味方につけようと配慮を行っているのに対して、ピケテロスの方では、そのような「市民社会」に対する配慮がそれほど重視されているような気がしません。サパティスタは、とにかく何かというと「市民社会」について書く。

 

佐々木

「市民社会のみなさん!」と。これは、もはや従来の意味とは違い、サパティスタ独自の意味、位置づけを獲得した言葉となりつつあります。

 

廣 瀬

サパティスタにとっての「市民社会」とは、メキシコ国民とか、メキシコの他の地域に住んでいる人たち、あるいは、世界の他の人たちのことですよね。サパティスタたちは、つねにそうした人たちのことを気にしている。
 
サパティスタのところに行って驚くのは、サパティスタの旗とともに、必ずメキシコ国旗が掲げてあることです。アルゼンチンでは、国旗に左翼的な意味があるから、同じことをやっている団体もあるけど、サパティスタとは意味が違います。
 メキシコの国旗は、メキシコ革命のときに、エミリアーノ・サパタ★7が勝ち取ったものが表現されているからだ、というような説明だけでは、今日のサパティスタが、自分たちの旗のとなりに、国旗を掲げている理由は分かりません。
 彼らは、自分たちが先住民であると同時に、メキシコ国民でもあるということを、あくまでも主張しているんです。サパティスタにとってのメキシコ国旗とは、つまるところ「仲間」を意味するものだと言えるでしょう。「僕も君も仲間なんだよ」と。別様に言えば、「自分たちだけが、正しいことをやっているわけじゃない」ということです。
 
サパティスタに見られるような、「市民社会」へのこうした配慮をないがしろにすると、運動は「悪魔」化されてしまい、たちいかなくなってしまいます。
 その典型的な例が、安田好弘弁護士★8たちによる死刑廃止運動でしょう。彼らが頑張っていること自体は、素晴らしいことだと僕も思います。でも、戦略が完全に間違っている。日本国憲法に関わる闘争であるにもかかわらず、自分たち以外の日本国民すべてを敵に回してしまい、完全に悪魔化されてしまっています。あれでは、絶対に勝つことはできないでしょう。
 
メキシコ先住民連帯運動の神崎さんが言っていたことだけど、「市民社会の外から撃つのではなくて、市民社会のなかから撃つ」ということが重要なんです。

 

佐々木

しかも、「市民社会」を撃ってはいけないということですね。

 

廣 瀬

YouTubeにECD★9の「言うこと聞くよなやつらじゃないぞ」という曲を使ってつくった変な映像があって★10、それを見て僕が面白いなと思ったのは、自分たちの運動を、米騒動などと重ね合わせているというところです。こうしたことは、やって損はないと思います。
 小熊英二★11やいろんな人が言っていることだけど、やっぱり使い捨てのナショナリズムというのは、あってもいいかもしれない。左翼の「新たな歴史教科書」というものが、‘読み捨てられる雑誌のように’あってもいいかもしれません。

「新しい歴史」を書く ── 影丸とは君かもしれない

廣 瀬

僕は大学で働いていますが、感性のある学生が、まず何を初めに読んでいたかというと、小林よしのり★12なんです。「君たちのおじいさんは、アジアを解放するために、命を捨てて戦ったんだ」と言われて、「僕にもその血が流れているのか」と、誇りを感じてしまうわけ。
 その物語に対抗しなければいけない。でも「いや、現実は違うだろ」と、正しいことを言っても、勝ち目はないでしょう。いくら正しいことを言ってみても、向こうの物語の強度の方が、圧倒的に強いわけですから。僕らのほうでも、新たな物語を作ってみる必要があるわけです。
 
そこで、僕がモデルとしていつも考えているのは、白土三平の漫画を大島渚が映画化した『忍者武芸帳』(1967年)★13という作品です。そこには、忍者の影丸というゲバラみたいなのがいて、いろんなところで一揆を仕掛けたりするんだけど、だんだん誰が影丸なんだか分からなくなってくる。そして、話の最後に「影丸はどこにでもいる」と言うわけ。「それは君かもしれない」と。
 これは「おじいさんが、アジア解放のために戦った」という物語に、勝てるかもしれない物語です。これを公開当時見せられた連中は、さぞかし「やるぞ!」と奮起したことでしょう。
 
ECDや高円寺の「素人の乱」みたいな人たちが、米騒動や百姓一揆などと重ね合わせて、自分たちの運動を語るという戦略は、サパティスタがエミリアーノ・サパタの闘争を、自分たちは受け継いでいるんだと言い張ることと似たようなところがあるし、「仲間」としての市民社会を立ち上げることができるかもしれないものです。

 

佐々木

闘いのなかに、いかに日本の市民社会を巻き込んでいくかということですね。

 

廣 瀬

だいたい、「日本人は和を尊ぶ民族だ」なんて嘘っぱちもいいところでしょう。いま出ている日本史の教科書を読んだって、日本人が和を尊んでいる様子など、ひとつも描かれていません(笑)。中学や高校の先生は、授業でそこを強調すべきです。
 そういった転覆的かつ革命的な血が、君たちにも流れているんだというような話を、生徒たちにしつこく聞かせるべきでしょう。