佐々木 | : |
サパティスタとピケテロスの違いについては、どうお考えでしょうか。
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廣 瀬 | : |
サパティスタとピケテロスとのあいだには、共鳴しているもののほうがずっと多くあると思うけど、それでも違いを挙げるとすれば、そのひとつは、やはりピケテロスが「市民社会」をうまい具合に味方につけられなかったことにあるのではないでしょうか。
これは、もちろん、サパティスタの場合には運動が山奥で展開されており、多くのメキシコ住民には、ほとんど目に見えないものであるばかりか、正直に言って「やりたければ、勝手にやれば」ということもあるでしょう。
これに対して、ピケテロスのほうは、大都市郊外で運動を展開していて、何かというと橋を渡ってブエノス・アイレスのど真ん中になだれ込んでくるなど、つねにアルゼンチン住民の視界の内側に存在している。
民衆蜂起直後の国民的熱狂のなかでは、自分たちのダイナミクスをこの上なく体現してくれている輝かしいものとして、目に映っていたかもしれませんが、その熱狂が冷めていくにしたがって、徐々に「目障りなもの」になっていったのではないでしょうか。そして、結局のところ、「ピケテロスは危険だから、社会保障でも受け取って、どこかでおとなしくしていてほしい」ということになったわけです。
しかし、こうした可視性の問題とは別に、サパティスタがつねに「市民社会」を味方につけようと配慮を行っているのに対して、ピケテロスの方では、そのような「市民社会」に対する配慮がそれほど重視されているような気がしません。サパティスタは、とにかく何かというと「市民社会」について書く。
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佐々木 | : |
「市民社会のみなさん!」と。これは、もはや従来の意味とは違い、サパティスタ独自の意味、位置づけを獲得した言葉となりつつあります。
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廣 瀬 | : |
サパティスタにとっての「市民社会」とは、メキシコ国民とか、メキシコの他の地域に住んでいる人たち、あるいは、世界の他の人たちのことですよね。サパティスタたちは、つねにそうした人たちのことを気にしている。
サパティスタのところに行って驚くのは、サパティスタの旗とともに、必ずメキシコ国旗が掲げてあることです。アルゼンチンでは、国旗に左翼的な意味があるから、同じことをやっている団体もあるけど、サパティスタとは意味が違います。
メキシコの国旗は、メキシコ革命のときに、エミリアーノ・サパタ★7が勝ち取ったものが表現されているからだ、というような説明だけでは、今日のサパティスタが、自分たちの旗のとなりに、国旗を掲げている理由は分かりません。
彼らは、自分たちが先住民であると同時に、メキシコ国民でもあるということを、あくまでも主張しているんです。サパティスタにとってのメキシコ国旗とは、つまるところ「仲間」を意味するものだと言えるでしょう。「僕も君も仲間なんだよ」と。別様に言えば、「自分たちだけが、正しいことをやっているわけじゃない」ということです。
サパティスタに見られるような、「市民社会」へのこうした配慮をないがしろにすると、運動は「悪魔」化されてしまい、たちいかなくなってしまいます。
その典型的な例が、安田好弘弁護士★8たちによる死刑廃止運動でしょう。彼らが頑張っていること自体は、素晴らしいことだと僕も思います。でも、戦略が完全に間違っている。日本国憲法に関わる闘争であるにもかかわらず、自分たち以外の日本国民すべてを敵に回してしまい、完全に悪魔化されてしまっています。あれでは、絶対に勝つことはできないでしょう。
メキシコ先住民連帯運動の神崎さんが言っていたことだけど、「市民社会の外から撃つのではなくて、市民社会のなかから撃つ」ということが重要なんです。
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佐々木 | : |
しかも、「市民社会」を撃ってはいけないということですね。
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廣 瀬 | : |
YouTubeにECD★9の「言うこと聞くよなやつらじゃないぞ」という曲を使ってつくった変な映像があって★10、それを見て僕が面白いなと思ったのは、自分たちの運動を、米騒動などと重ね合わせているというところです。こうしたことは、やって損はないと思います。
小熊英二★11やいろんな人が言っていることだけど、やっぱり使い捨てのナショナリズムというのは、あってもいいかもしれない。左翼の「新たな歴史教科書」というものが、‘読み捨てられる雑誌のように’あってもいいかもしれません。
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