── 僕らは、「生」全体を、芸術的に生きなければいけないのだということです。

 

21世紀の社会主義 ── チャベス流「構成的権力」

佐々木

運動と国家の関係については、どうお考えでしょうか。

 

廣 瀬

運動と国家ということで、いちばん関心があるのは、ベネズエラですね。僕は、ベネズエラには行ったことはないんですが、話を聞いたり読んだりする限り、やっぱりすごい。ベネズエラとボリビア、この2つの国は、運動と国家とのあいだの関係が、アルゼンチンやメキシコとは違います。
 ベネズエラで行われていることは、いわば、様々な自律的な運動を自律的なままに、チャベス★1がボリーバル革命★2と呼んでいる流れのなかに回収する。それがうまくいっているかは別として、少なくともアイデアとしては、そうした仕組みが構想されているように思えます。
 
ドゥルーズ/ガタリが『アンチ・オイディプス』★3で、資本主義のモデルとして語っているような、脱コード化したものを超コード化する。脱コード化したものを、脱コード的な状態のままで、超コード化する。ボリーバル革命というのは、少なくとも理念の上では、再コード化に基づくものではなく、このような超コード化に基づくものなんです。
 資本主義の場合は、みんなを競争に置いて、みんなが自分たちの差異を、いかんなく発揮する。これが、脱コード化したものの超コード化ということです。ひとりひとりによる差異の生産を、市場経済という共通の枠組のなかで競争させるわけです。
 チャベスが運動にやらせていることは、もちろん、競争ではありません。でも、自律的な運動をつくらせて、それをそっくりそのまま自分の味方につけていくという意味では、やはりどこか資本制生産様式に似たようなところがあると思います。ここのところが、やっぱりおもしろい。
 
チャベスの愛読書は、ネグリの『構成的権力』★4なんです。彼は演説のなかで何度も『構成的権力』に触れていて、実際にネグリが目の前にいるときにも『構成的権力』について話している。
 チャベスがベネスエラで起こそうとしているのは、まさに「構成的権力」「構成する権力」で、その意味で、「構成された権力」としての憲法なんていうものは、近代の呪縛だということになります。「憲法そのものを運動のなかに置かなければいけない。それがボリーバル革命だ」というわけです。そして、まさにこのロジックのなかで、彼は憲法改正をしようとしているわけだから★5
 チャベスが脱コード的な運動を促すのは、必然的にそれが、そっくりそのまま、彼の敵である外資超国籍企業や、これと結託した国内のエリート層に対する抵抗勢力となるからです。その意味では、運動が実際にどのくらいチャベスに賛同しているかということは、たいした問題ではないわけです。敵は共有されているわけですからね。
 
ボリーバル革命が、「21世紀の社会主義」★6と呼ばれるのは、このようにして、資本の運動をモデルにしているからでしょう。これまでの社会主義は、基本的に再コード化に立脚したものだった。これとは反対に、ボリーバル革命は、多様な差異の生産を超コード化することに立脚したものなのです。

運動こそ国家の原動力

廣 瀬

これまで国家は、運動を自分の敵だとみなしてきた。たとえば、国鉄や社会保険庁の問題のように、労働組合運動が国家に迷惑をかけている、だからこれを解体しなければならない、というような話です。しかし、ネグリがジュゼッペ・コッコとのラテンアメリカについての共著『GlobAL ── グローバル化されたラテンアメリカにおける生権力と闘争』★7のなかで、書いていることでもありますが、そうした考え方は間違っている。
 むしろ運動こそ、国家開発における最大の力となり得るものなのです。国家がどれだけ発展するかは、多様性をどれだけ認められるかにかかっている。運動が国家開発にブレーキをかけている、という見方は間違っているんです。
 
ネグリたち自身は、そうしたことに気がついた政府として、アルゼンチンのキルシネル政権や、ブラジルのルラ政権を挙げているわけだけど、僕には、まさに『構成的権力』の愛読者であるチャベスの政権こそが、現段階では、これを最もはっきりと体現しているように思えます。あるいは、ボリビアのエボ政権のほうが、可能性を秘めているかも知れない。なにしろ、エボ・モラレスは、チャベスのように、テレビ局を閉鎖★8するみたいなことは、やりませんからね。
 チャベスの場合は、テレビ局を閉鎖するなどの強硬な政策をとるために、運動の側に「自分たちは反チャベスだ」と言えるきっかけを与えてしまいます。今回の憲法改正の失敗は、まさにそこに理由があります。
 
これに対して、エボ・モラレスのほうは、もともと先住民族出身で、コカ栽培者だったわけだから、彼に対して運動が愛想を尽かすような理由はひとつもないわけです。さらにまた、エボの副大統領アルバロ・ガルシア・リネラは、ネグリの著作を全部読んでいるような、とてつもないインテリだしね。

チャベスのばらまき、チャベスの悪口

佐々木

運動の自律性にとって、ボリビアの方が難しいかもしれませんね。ボリビアの場合、ボリビアに住む人びと、運動に関わる人びとは、簡単にエボと自己同一化できてしまうかもしれない。ですが、チャベスはそれができない。みんなどこかで「あいつは痛いやつだ」と思っている(笑)。
 ベネズエラにおいて左派系知識人、地域活動家までふくめ、みんながみんな「チャベス万歳」ではないわけです。でも、チャベスにとってみれば、反チャベスじゃなければそれでいい。

 

廣 瀬

反チャベスでなければ、彼が敵としているものと反対していることになるから。だから国家の側に対して言えることは、とにかく、運動が開発の力になるという考え方を徹底的に取るべきだということですね。
 
よく批判されるような、チャベスのばらまきのことについては、『VOL』にも書いたことけど★9、石油が出たら誰だってばらまくでしょ(笑)。いままでばらまかなかったから大変な問題が起きたわけで、それをばらまくのは当然でしょう。
 ただ、チャベスのばらまきは、家庭ごとにはばらまかず、あくまでも運動単位でばらまきます。たとえば、近隣地区に診療所を開設するにしても、それだけではお金をくれません。診療所を運営するための、近隣住民委員会をつくればやるよということなります。運動をつくることが、受給の条件なんです。
 大統領選挙で、反チャベスの候補は、家族単位での給付を公約に掲げていましたが、ベネスエラの住民たちは、そちらを選ばずにチャベスのやり方のほうを選んだわけです。
 
ただ、ちゃんとベネズエラのことを見ているわけではないから、ひょっとしたら悪いところもあるかもしれない。「チャベスの悪口言ってくれよ」みたいな雰囲気を感じることがあるけど(笑)、日本でチャベスの悪口を言う意味はない。

 

佐々木

チャベスの悪口を言うことは、アメリカ合衆国と同じことを言うことになる。

 

廣 瀬

そう、悪口を言おうとすると、ブッシュと同じことしか言えない。それはしないよう、自分を戒めなければ(笑)。

国家論を超えて

佐々木

日本においては昨今、国家論が様々に語られています。廣瀬さんご自身は、現在語られている国家論や、国家にたいする運動側の戦略といったものについて、どうお考えでしょうか?

 

廣 瀬

僕は、はっきり言って国家に関して興味がないんです(笑)。運動は、市民社会とはうまくやっていくべきだと思うけど、特に国家について、深く考えたことがありません。正直に言って、国家について考えることが、運動にとって何の役に立つのかいまひとつよくわかりません。
 さっき言ったように、国家にとっては、運動について考えることは必要でしょう。国家の側が、運動を富だと認識すれば、国家というものがもっとクリエイティブなものになるとは思いますが。

 

佐々木

少なくとも運動の側が、国家のことをわざわざ慮ってやる必要はない。

 

廣 瀬

そうですね。ただし「原国家」が運動のただなかから芽吹くのは、抑制しなければなりません。まさに「国家に抗する社会」としての自己統治を、自分のなかでもやらないといけない。自己統治は、アウトノミア構築の基本だと思います。

日常生活の前衛 ── 天使として生きる

佐々木

お話にもあったように、ラテンアメリカでは、国家が運動を吸収しようとする力が、とても強い。運動の側がそれに抗してゆくためには、どのような戦略・可能性があるとお考えでしょうか。
 ラジオサパティスタでのインタビューで、廣瀬さんは「日常生活の前衛化」ということをおっしゃっていましたが★10

 

廣 瀬

運動のすごいところは、何よりもまず、そのクリエイティヴィティです。運動はやっぱり「前衛」なんです。日常生活の前衛。運動にとって、何より重要なことは、日常生活にクリエイティヴィティを取り戻すということで、ピケテロスやサパティスタの運動がおもしろいのも、そうしたことが実践されているからです。
 「生」というものは、そもそもクリエイティヴなものなのですから、それを取り戻さなければならないという以外の選択肢は、運動にはありません。再生産のために、運動をやっているわけではないのだから。
 サパティスタのすごさは、建物の壁に面白い絵が描いてあることから始まって、「詩」そのものだと言っても過言ではないような、言説の絶え間ない生産に至るまで、生きていることそのものが、クリエイティヴになっているということにあります。これはピケテロスについても同じです。おもしろい運動というのは、すべてそうでしょう。
 
「芸術作品があるということは天使がいるということを意味しているんじゃない、それは僕たちみんなが天使であるということを証拠立てているのだ」と、ネグリは『芸術とマルチチュード』★11のなかで書いています。
 僕たちはみんな芸術家なんです。もしも闘争の次元が、ネグリが言うような生権力みたいなところにあるのだとすれば、当然のことながら、僕らは「生」全体を、芸術的に生きなければいけないのだということです。 資本が「生」をまるごと、自分のもとに包摂しようとしているのであれば、僕たちもまた、「生」全体を芸術的にクリエイティヴに生きるようにしなければならない。
 
ウィークデイの午前9時から午後5時まで工場で働いて、週末だけ家でカンバスに絵を描いていればそれでいい、という時代は終わったのです。社会全体が工場となってしまった以上、闘争もまた社会全体を、あるいは生活全体を、そのカンバスとしなければならないということです。

 

佐々木

「生活=芸術」であり、「生活=闘争」でもあるわけですね。

 

廣 瀬

そうです。闘争というのは芸術だから。僕が、映画と運動の間に、何か同じことを見出しているとすれば、映画も運動もまったく同じように、「生」の最先端にあるということです。
 僕が、「日常生活の前衛」という言葉で言いたいのは、まさに、僕たちひとりひとりが天使として生きるということなんです。